MELC(長岡ゼミ)のブログ

【カタリバへの越境】対話を通して、高校生と共に学ぶということ

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  先日NPO法人カタリバが開催する都内の高校への出張授業(カタリ場)に学生スタッフとして参加させてもらった。ご存知の方も多いと思うが、カタリバは高校生が親や先生ではないナナメの関係である大学生や社会人との対話を通して進路について考えるアクティブ・ラーニング形式の授業(カタリ場)を様々な高校に提供している。カタリバはキャストのほとんどが大学生ボランティアで成り立っており、大学生自身もカタリバを通して成長した!という声が周りから聞こえるのも印象的であり、その中で自分はどういう価値を高校生に提供できるのか、そんなことを考えながらの参加であった。

 

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(実際の高校名が出せないため、写真はすべてイメージです。)

 

「将来の夢とか、分かんないし。」

今回私は100分の授業の中で、高校生から話を引き出すフロアキャストとして6名の生徒と対峙した。カタリ場の授業の中でボランティアがもっている裁量は、かなり大きいと感じる。コンテンツや流れは決まっているものの、その中の時間をどう使い生徒から想いを引き出していくか、自分ですべてをファシリテートしていくことになる。事前の説明会で「当日成功するかはキャストの皆にかかっている。」と言われたが、本当にいちボランティアの私に多くのことを任せてもらえる。

ドキドキの状態で迎えた当日。私のグループのある女の子が将来の夢の欄に「働いている」とだけ記入していた。彼女はその前から自分の意見を口に出さず、隣の友人の顔を伺うばかりなのが気になっていた生徒だった。「どういうこと?」と尋ねても、「将来の夢とか、分かんないし。」と返され沈黙が続く。私自身も未だに具体的な職業名で将来の夢を語ることができないタイプなので、その気持ちはよく分かる。そこで「じゃあ、10年後23歳の時にどんな風に働いていると思う?」とパワフル・クエスチョンを投げかける。彼女の奥底に眠る何かをもっと見てみたいと思ったのだ。すると、「仕方なく働いてるかも・・。」「仕方なく働きたいってこと?」「いや、笑顔な人に囲まれて楽しく働きたい。」「いいね!他にはどんな人が思い浮かぶ?」「小さい子供に向けて何かしたいかも・・・。」というやりとりを続けていくうちに、私は彼女の顔が少しだけ明るくなり、私の目をみてしっかり自分のことを自分で考える様子に気づいた。

もちろん彼女がこの数分の対話だけで、何かが劇的に変化したとは思わない。けれども、彼女の可能性を信じて真正面から向きあっていくと、彼女が「将来の夢」に対して持っていた”なんだか遠くて実感のない不安な未来”という固定観念を、少しだけでも揺さぶれたのではないかと思う。

 

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私の在り方が問われ続ける100分間

しかしいつも対話がうまくいっていたかというと、そんなことは無かった。はじめに裁量権が大きいと書いたように、例えば高校生と車座になり着席すると、その後導入時間の15分間の仕切りはすべてがキャストに委ねられる。これまで講義型の授業を受けていた、参加意欲がそもそもマイナスな高校生もいる中で「こんにちは!今日は自分の夢のことを考える時間だよ!」と始めるのはとても難しかった。さらに高校生同士が話し合う環境づくりを心がけていたのだが、今回はグループの高校生同士も初対面とあり、予想以上のシャイさから横のつながりが全く作れないまま、私ばかりが質問を投げかける形になってしまった。私が誰か一人に質問をしている間、他の子がその子の話を聞くのではなく、他のグループの友達と目配せをしたりする状況が生まれてしまった。

相手の立場になって想像した時に、どうすればよかったのだろうか。終わった後、もんもんと「悔しい」という思いを抱えていた時に、スタッフ同士で行った反省会のセッションで「横の関係性作りのために、はじめの時間でゲームをしました。」と答える人がいた。そこで私は、導入の時間でしっかり目的を伝えなければいけないと真面目に考えすぎて、遊びの要素を忘れていたことに気づいた。さらに、そういった事態になるのは今回に限ったことではなく、ついつい考えすぎると遊び心の要素を忘れて物事の本質を見落としてしまう癖が私には度々あることを自覚する。カタリ場の100分は、キャリアに対する知識だけではどうすることもできない、普段の自分の人や物事に対する在り方がダイレクトに問われていたのだ。

 

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泥臭く、共に学び合う

最後に、カタリバスタッフの方から「高校生と、人として対話することはできました?」という問いが投げかけられた。人と人とがダイレクトにぶつかり合う時、そこにあるのは上手にできたかどうかではなく、「泥臭さ」なのだと思った。私自身がまず自分をさらけ出して、相手の不安や不信感を取り除き、相手の深いところを引き出していく泥臭さ。今回の一期一会の出会いから、教師でもなく、親でもない、カタリバキャストだからこそできる関わり方の重要性を実感したとともに、高校生とともに私自身も多くの学びを得ることができた。

カテゴリー: みくそん 越境レポート

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