MELC(長岡ゼミ)のブログ

無報酬からみえること

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生々しい話になるが、私は「無報酬」という言葉につい最近までずっとピンと来ていなかった。いつのまにかボランティアや、無報酬の活動を避けている自分がいた。「なぜタダ働きしなきゃいけないんだろう」「趣味や遊びならわかるけど、仕事(に見える活動)で無報酬なんてやってられるか」といった具合に、「無報酬」ということになんだか絶大な嫌悪感を抱いていた。ただのケチな奴と思っていただいて結構であるが、現実、お金が無くては生きていけない。しかし、今年に入り越境をして行く中で、そんな風に無報酬で活動している人を見たり、実際に無報酬で活動してみたりして、私の中での「無報酬」という考え方が変わった。むしろ、いつのまにかそんなことすら考えなくなった。

●マムシュカ東京16
web:http://dance-media.com/mamuska/tokyo16.html

6月16日(日)に東京造形大学で開催された「マムシュカ東京16」へ行って来た。マムシュカの詳細はウェブサイトを確認していただけたら良いのだが、完璧でないパフォーマンス観賞空間とでも言ったらいいのか。というのも、私はその前の週に「能」の舞台を見に行っていたので、それとの空間の違いを非常に強く感じていた。「マムシュカの実験的パフォーマンスv.s.能の洗練された完璧なパフォーマンス」と「マムシュカの空間の一部の様なステージv.s.能の完全に空間から独立したステージ」を考えながら見ていると楽しかった。

ーーパフォーマンスは随時行われていて、すべてのパフォーマーが何をするか把握している人は会場にただのひとりもいない。どこでどんなすごいものが飛び出すかはお楽しみ。たくさん観るべし!自分の目で耳で!お気に入りのパフォーマーを見つけるかどうかはあなた次第。お気に入りのパフォーマーを見つけたその時、あなた自身の感性に気付くはず。
(「マムシュカの楽しみ方」http://dance-media.com/mamuska/pg60.html より引用)

 パフォーマンス中は、しゃべっても、席を立っても、一緒に踊っても、飲み食いしてもいい。一番驚いたのが、パフォーマンス中に「スピーカーの音がうるさい」と言い放った観客がいたこと。「そりゃパフォーマンス中ですから」とついツッコミたくなってしまったが、そんな発言をしたっていい。それに、意外と周囲の雑談やノイズも、気にならない。見る人に観賞するか否かの判断を完全に委ねている状態であった点が、パフォーマンスが空間の一部であると感じた。正直、あの雰囲気のまま、あのパフォーマンスを完璧なステージで見せられたら、いてもたってもいられず、その場を去っていただろう。上の引用にあるように、そんな混沌とした中で見つける「お気に入り」はもしかしたらホンモノなのかもしれない。

個人的には、どのパフォーマーよりも、観客よりも、マムシュカの中心になっている音響や照明、映像のブースが一番楽しそうだったことが、一番印象に残っている。実は私のお気に入りはここのブース。マムシュカのルールに「入場料は無料」という項目がある。しかし機材だったり、人件費だったり、飲み物や食べ物代などを考えると、彼らは無報酬であるどころか実質赤字のような気がする。こんなこと、ブログを書くまで気にもせず、「彼らは好きだから楽しんでやっているだけ」なのだと今でも思う。しかし、改めて考えると少し不思議なような気もする。

988352_565259320192147_901078284_n.jpg(写真上:一番楽しそうに見えたブース)

●東京国際ゲイ&レズビアン映画祭
web:http://tokyo-lgff.org/2013/

「自分の興味関心に関わる活動にとりあえずコミットしてみたい。」ということで、東京国際ゲイ&レズビアン映画祭のボランティアスタッフをすることにした。先日ボランティアスタッフオリエンテーションに参加した後に、さっそく新宿二丁目でパンフレットを置いていただいたお店に招待券を配るとい業務をお手伝いした。少人数のグループで、協力していただいたお店を回ることになった。スタッフの引率がありながらも、二丁目初心者の私は二丁目マップを広げながらお店を回って行った。まるで小学生の総合の時間の「まちたんけん」みたいにたどたどしく始まったこの業務だが、いつのまにか「この映画祭をみんなに知らせたい」「映画祭をもりあげたい」という気持ちへシフトした。街頭でのビラ配りみたいに、見知らぬ人へパンフレットを配り始めてしまった。また、知人にパンフレットを渡す時も勝手に「ますくんのオススメ」を作って、映画のトレーラーを見ただけなのに熱く語ってしまった。映画祭を開催する側になったというアイデンティティを得て、嬉しくなったのかもしれない。このボランティアスタッフ参加自体も、この招待券配布業務のことも、無報酬がどうのこうのなんて考えていなかったが、今まで「無報酬への嫌悪」に執着する私がいたことを考えてみると、なんだか変である。

●ただの手段である

このような体験から私は次のことが分かった気がする。「自分の実現したい世界や社会に向かって行なう活動・社会的な価値を見いだす為の活動は、報酬の有り・無しにかかわらず、熱中してしまうただの手段であること。」逆にいえば、「報酬目当ての活動は報酬の為の活動でしかなく、報酬をもらえばすべてが終わるのである。」5月23日(木)のカフェゼミで、「シゴトとアソビの境界線」を考えるというテーマで、こんなツイートがあった。 

ーー心から価値を感じて、楽んでいたら、深め続けられるし積み上がる。それが社会に価値を生みだせば仕事になる。共感と信頼がうまれる。もっと追究できるようになる。@kabu_rieさん
ーーやりたいことと生きるお金を稼ぐことを重ねることは、自己満足と社会から受け入れられることとの葛藤から逃げないこと。そこから新しいものがうまれる。@kabu_rieさん

(#melc2013 0523 http://togetter.com/li/507714 より引用)

 自分が価値あることを深めたり積み上げたりするときには、報酬の有無は関係ないのである。このような活動から見いだした価値を、どのように社会に意味付けて行くのか考えた時に、もしかしたら、本当の意味で「シゴトとアソビ」の境界線が揺らぐのかもしれない。これが最近発見した(というかゼミの内容を再確認した)ことである。

カテゴリー: ますくん

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