MELC(長岡ゼミ)のブログ

違和感を発信することから始まる第一歩

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日常生活において発生する「これ、違うんじゃね!?」という内なる声が叫びだす”違和感”。

違うと思うんだけど、口にだすのはちょっと違う気がするし…空気読んでない気もする。むしろ自分が間違っているかもしれない。こんな時、この内なる声をどう扱っているだろうか?このまま黙って見過ごすのか、それとも「変えた方が良い」と思い、アクションを起こしていくのか。

果たしてどちらが”正しい”のか?


「対話のアトリエ」に参加してこんな問いに直面したように感じる。「対話のアトリエ」とは古瀬ワークショップデザイン事務所のまーぼーさん、青山学院大学大学院のヘルメさん、テレビ局で番組制作をしているまきまきさんの3人からなる「対話部」が、普段の生活で生まれる問いを参加者の見方を混ぜ合わせながら、忙しなく流れていく現代社会の中で何気なく繰り返される人々の営みを"あえて"問い直し、他者と見方(価値観)を共有し、対話することでより良い生き方を模索するイベントだ。

対話のアトリエ.jpg

<対話のアトリエのイベントページ>

https://www.facebook.com/atelierDialogue


第2回の今回は「関係と無関係のあいだ」というテーマで、”違和感があるけど関係ないことに口を出すべき?”という問いを考えた。

例えば友人の恋愛関係、会社や学校のサークルなどの組織内の人間関係だったり、家庭内で起きるお母さんの「息子の部屋のコレ捨てちゃっていいの?問題」など、”関係ないといえば関係ない”けど、他者の振る舞いや社会の文化だったりに感じる”違和感”に対してどう向き合い、対処していくのか。一見抽象的だが意外と身近に存在するこの”違和感”。なんとなくうやむやにして後から大問題に発展したり、あえて口をだすことで逆に問題を大きくしてしまったり、判断の難しい状況に私たちはどう向き合っていくべきなのかを話し合った。

22人の参加者が集まったこのイベント。前半は席替えをしながらいろんな人と対話するワールドカフェ形式、後半は全体でディスカッションという風に進められた。

全体を通して特に印象に残った話は、スイスに留学し観光学を学んでいる学生が今悩んでいる問題の話。留学先の学校ではさまざまな国の留学生が集まっているのだが、どうやら他の学生は「食べ物を大切にする」という習慣がなく、ビュッフェ形式の食事にも関わらずよそった食べ物を躊躇なく残すらしい。「なんでやねん。残してもったいないとか思わないの?」と彼らに問うても「食べ物を大切にする」という価値観がないかれらにとっては何も響かないらしい。なかには「自分の国にも食料問題起きてるだろ」っていうような国の出身者でも育った家庭が裕福だからなのか、何も思わないないらしい。なんとかしたいと思うのだが、「食べ物を大切にしよう」という教育を20年間以上うけてこなかったのだろうから、その人生を真っ向から否定するのもどうかと思ってしまう。それに違和感を感じるのは彼ひとり、相手は全校生徒200人。勉強も忙しい中、ひとりで戦い抜く労力をさく余裕も彼には残っていない。終いには残った食べ物を処理するのが嫌でストレスを感じている自分に対して理性が働いて感情をシャットアウトし、残飯を捨てる時は何も感じなくなっているそうだ。

果たしてこのままでいいのだろうか?良くないのはわかっているが、違和感に立ち向かうことに疲れてしまった彼の苦しみが伝わってくる。彼は戦い続けるべきなのだろうか?

全体をとおして、「やはり違和感はちゃんと向き合って解決すべきだ」という意見は多かった。しかし最後の議論で「違和感って感じ損じゃない?」という意見を発端に、「いや、違和感を感じるのはちゃんと相手を考えているからで、そういうのに向き合ってちゃんと表明することは”愛”だと思う」という意見、逆に「違和感=愛というのはなんかちがって、それを表明して押し付けるのは単なる自己愛では?」という意見がでたりと終了間際にかなり議論が深まって、全員がモヤモヤしている状態のなかタイムアップ。全体としての結論が出ることなく、さらに深まった問いを目の前に残して、対話のアトリエは終了した。私もかなり混乱に近いモヤモヤがあった。

日常にふと感じる違和感をなんとなく関係ないからと思ってしまったり、忙しさやしがらみを言い訳にして見過ごしたりごまかしたりする瞬間はないだろうか?私も他者の意志に口を出すことに申し訳なさと後ろめたさを感じてしまうことは多い。良くないのはわかっているのに、違和感を発したのに他者に論破されたり孤立したりするのではないかという不安感からなにもする事なくその環境に適応してしまうのはどこか寂しい。終わってみてから絶対に他人のせいにしてしまうのだから。望まない状況を受け入れることなく、まずは発することから始めたい。ただ愚痴で終わらせるのではなく問いかけるのだ。もしかしたら違和感に共感してくれる応援者が現れくるかもしれない。もしくは頼りになる人に相談したら、本当に共感してくれるかもしれない。そうなったら、望まない状況を変えられる一歩を踏み出せるかもしれない。一人で一瞬にして状況を一変させることは難しくとも、誰かと一緒だったらちょっとずつちょっとずつ変えていけるかもしれない。できないことを周りのせいにしながら嘆くよりも、私自身が欲しい”良い”社会(チーム、状況、人間関係)を作り出す。その一歩目が違和感を感じ、それを発信して問いかけることではないだろうか?私が何かを始めない限り、なにも始まらないのだから。

 

カテゴリー: やまね 越境レポート

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